落人の里  (臥竜の里)

「夏草や 兵どもが夢の跡」 (芭蕉)
古くから籾村の土地は、地勢的に天峻幽谷、人の出人りに不便で、俗界を離れた仙境であり、また時代的には、籾村をとりまく周辺で戦国争乱の攻防戦が度々展開し、多くの落武者がこの地に隠遁して、しばしの間、英気を養い、他日雄飛の機をねらっていた。
数多くのこる、廃寺、草庵、仏閣開孫の地名からしても、一族関係者の追善供養と、禅定瞑想にふけった、失意の人が多かったと思われる。
籾村は落人の里であり、臥竜の里である。
その幾つかを記し、後日識者の訂正補筆をまつことにした。

籾村開拓上貴重な資料として、次の古文書がある。鎌倉時代 正安四年壬寅三月(1,303年)づけで
「志呂宮御祭頭文次第」
籾村分
五番春
利武一頭
即田畠二町二反三百五十歩
行友六反二十歩
檀帋免跡二反小十歩
成末内畠七反半五十歩
包宗二反百十歩
己上四町六反二十歩
足利時代の文安三年丙寅卯月廿二日(l、四四六年)づけで
「美作国弓削庄志呂宮段米納分」に
一斗二升 利武 八升四合 利武分成友  が記され、
「志呂神社六年頭々屋法、利武、岡、竹ノ花株」が、寛永三年から昭和三十一年までの古記録を、利武巍氏が所有してお
り、利武氏の宝きょう印塔が、町の文化財指定を受けている点などからして、平安末期に土着した豪族として利武氏があったと思われる。

建部町角石谷(鶴田小学校の南)に、長栄山円通寺という日蓮宗の廃寺がある。円通寺は、永正十六年(1507年)
に僧日求が開基した寺であるが、境内に二基の古い墓がある。

南無妙法蓮ケ経
如実院殿宗寛大居士  実相院殿命具大師  実正院殿宗種大居士 実明院殿妙種大柿 霊位

(実) 永禄七甲子四月朔日川口左近藤原家總
(相) 仝 年 四月三日  仝 人 妻
(正) 寛永土甲戊九月十五日川口五郎左衛門家政
(明) 仝 十三丙子九月廿八日 仝 人 妻
施主 津山住 川口藤左衛門雅言


妙法川口喜多諸精霊
持徳院一心日慶大徳  慶隆院妙心日持覚位  本明院浄泉日精居士  法明院妙浄日進大柿  各霊


(持) 慶安四辛卯四月十八日喜多五郎兵衛家北
(慶) 明暦元甲未十二月十一月 仝 人 妻
(本) 寛文四甲辰三月十九日喜多市良右衛門
(法) 寛文十三葵丑八月八日 仝 人 妻
施主 津山住 川口藤左衛門雅言

尼子の武将、川口左近は、備前の浦上宗景に攻められてから、好機を待っていたが、遂に機を逸し、一族も四散し、五郎兵衛家北は喜多と改姓し、その子孫は上籾の岡ノ鼻に土着し、川口五郎左衛門の子孫は津山に住んだ。鶴田小学校北にある土佐神社は、川口喜多二氏の守護神で、土佐大明神を祀り、川口寄進の石鳥居がある。

頃は、戦国争乱の天文年間、尼子の勢力は作州一帯にまで及び、当時尼子の武将、今井新左衛門安春は、伯耆(鳥取)細尾山城の戦に敗れ、安春の子、今井治郎左衛門は、天正八年十二月、弓削庄穂村今居谷、今の上籾今井谷の岡田に居を定めたともいわれ、その子孫は幕末頃まで、庄屋を勤め、現在岡田屋敷は田になっている。
土着したのは、安春の孫の孫右衛門であるという説もある。
鶴鵡城主、杉山備中守為就は、兄、増和八郎為長の死後、その子竹内善十郎為能幼きため城主となり、毛利氏に属していた。
垪和、杉山、竹内は皆同族で、垪和の豪族である。鶴田城が、字喜多に攻め陥されて後、杉山備中守の子孫は、中籾村石井谷に土着した。

天正八年、鶴田和田南の高城の城主竹内善十郎為能は、竹内杉山の一族を挙げて、毛利輝元に属していたので、字喜多直家はこれを攻撃した。
高城の勇士、赤木彌三郎は、戦死し、その子孫は中籾村に土着した
その時の感状は次の通りである。
高城之者籾村口江令通路候処悉退散剰赤木と申者被討捕候段忠節無比類侯必奥賞可相計候者也仍状如件
閏三月廿七日           直 家 花押
小坂與三郎殿

永禄元年(一、五五八年)下籾の竜王山城が落城し、城主備前守氏秀は戦死し、その子與惣左衛門秀重は、下籾村で帰農土着した

永禄九年、下籾興善寺で、備中成羽城主三村家親を銃殺した。字書多直家の臣、遠藤又次郎と喜三郎兄弟の子孫は下籾村に土着した

永禄六年、中粉上ン殿城の城主河島左近将監源惟重は、中籾に城を築き、毛利輝元の武将として勢力拡大に努めていたが左近将監没後、城は焼け、子孫は土着した。

別所に、寺号を雉頭寺と称した廃寺跡があるが、その近くに、高上氏が住み、高城の地名になっている。
高上氏は現在、高城氏というが、同家の古文書によると、戦国武将の末裔である。

籾村庄屋を勤めた、高下中の近藤氏も武将の末裔であり、この外にも調査もれが多いであろう。

慶長五年九月、関ケ原の戦いに大敗した、石田三成の一族石田平吉郎成行は、戦国武人の習い、敗戦の遁者として、徳川方の捕手の網をくぐり、備前国津高郡小森に潜居して後、上籾村に土着した
墓碑と五輪塔がある。
江州佐和山城主石田冶部少輔三成末孫
(墓碑)南無妙法蓮経石田平吉郎成行墓
正保二年乙酉拾月給壱日歿
法号は
成行院殿石田日崇大居士
行年六十五才
寺ほ鶴田真浄寺である。

幕末の頃、幕府方の石見国(島根)浜田藩は、慶応二年六月、優勢な長州藩兵が、石見に攻め入り浜田城を攻撃したので、城を焼き、美作の領地に移り、翌慶応三年三月、里公文中村(現久米町) に陣屋を置いた。
浜田藩士、落合要八は同輩二人と、下籾村末則に集団移住した
明治四年、廃藩置県となり浜田士族二戸は転出したが、落合氏は帰農土着した。その後、明治の末、岡山市番町に転出し、下籾の士族屋敷助は現在水田となって、浜田藩士落合要八夫婦の墓だけが残っている。

戦国悲話(3)~上ン殿城址

尼子軍の部将岸備前守氏秀の居城の竜王山城が、永禄元年に毛利軍の部将備前天神山城主浦上遠江守宗景によって落とされてから後、永禄六年(1563年)毛利輝元の命に従い、四国の阿波国上郡河嶋城主河島左近将監源惟重は一族郎党を引きつれて、尼子の残党撲滅のため、中籾の河鳥に進駐し上ン殿城を築き、勢力拡大に努めていた.
たまたま永禄十年十二月(一、五六七年)一族中に反乱者があり、城に火を放ち、おりからの嵐にあふられ僅か四ケ年にして落城した。城址には武神の摩利支天を祀る祠があり、城主の墓碑もある。
墓碑の正面には
「妙法 元祖直山円郭大居士尊位
永禄八乙丑天九月十五日」
墓碑の右側には
「清和天皇由里二十二代之苗裔
河烏左近将監源惟重 阿州国上郡河嶋城主尼子為退治当国 御壽九十八才」同じく左側には「為先霊佛果」とあり台右に、河島株関孫一族名が刻まれている。
尚、城に関係した地名として、弓馬の乢(通称にばん乢)と、馬場が残っている。
天正五年(一、五七七年)世は将に戦国争乱の時代で、毛利軍の将浦上遠江守宗景は、家臣宇喜多直実と不和になり、地方の豪族は二派に分れて敵味方となった。字喜多方の部将、難波十郎左衛門、難波忠兵衛、沼元彦右衛門、沼元新左衛門、神納五郎左衛門(菅納
又菅)神納三郎左衛門、三浦源十郎並びに中籾の河島玄蕃は全間の蓮華寺山城に立てこもりその勢は盛んであった。
浦上宗景に味方する、小坂與三郎右兵衛、延原内蔵允家次、岡本太郎左衛門の軍勢は蓮華寺山城を攻撃した。
攻防激戦を何度か繰り返し、宇喜多方の部将三浦源十郎は戦死し篭城の宇喜多方は苦戦をしていたが、浦上宗景が死亡し天正十二年(一、五八四年)十二月、字書多と毛利軍が和睦し、毛利軍は安芸へ引き揚げ、蓮華寺山城も威亡し、宇喜多直家が美作を領したので、天下は静まった。

戦国悲話(2)~興善寺の変

栄枯盛衰、有為転変は人の世の常である。
永禄五年(1,566年)豪将尼子晴久が死ぬると、美作の諸将は備前の浦上氏に属するものと、或は安芸の毛利氏に通ずるものにわかれた。
備中成羽城主三村修理亮家親は毛利氏に属し、猛威は備中国内に及んでいたが、永禄八年五月兵を率いて美作に入り、更に美作南部を占領し、備前を侵略せんと機会をうかがっていたが、毛利軍の加勢を得て永禄九年新春、兵六千を率い本陣を久米南条郡籾村備頂山輿善寺に置き、弓削仏教寺から三明寺一帯に兵を配し備前追撃の準備をしていた。
備前天神山城主浦上宗景は、家臣宇喜多直家が最近とみに勢力を増大し、権力は主を凌ぐ勢となって、浦上と宇喜多二氏の問に不和の空気が漂い、奸才にたけた宇喜多直家は三村軍の備前侵略には心安からぬ不安の気持に襲われていた。
津高郡加茂の住人遠藤又次郎と弟の喜三郎兄弟は鋭術に秀れ、かねて成羽に行き家親の面容を識っているので、直家は遠藤兄弟に「何とかして本陣に忍ひ寄り家親を討ち果せば恩賞をとらせる」と命令した。
二月五日、遠藤兄弟は、木綿の着物、羽織に身支度し短銃と玉薬を懐中にして夜を待って寺の後の大竹薮に忍びこんだ。
書院には、ろうそくの灯障子に映えて明るく、大庭には、かがりをたいて番兵がいる。
又次郎たき火のそばに立寄り、「各々方、寒いのに大儀であるぞ」と気安く声をかけると、軽輩の番兵はあっけにとられて聞きとがめる者もなく、障子の際に忍び寄って立聞きをすると軍の手配り評定のさい中である。
そっと指につばをつけて障子を破ってうかがうと、正面に三村家親が座し、座頭一人、重臣など数人がいる。
又次郎は懐中に短銃は用意しているが火がないので、又、前の火のところに立寄り「今宵は寒さが、ひときわきびしいことだ」と話しかけると、軽輩の番兵が「お前は何の役か」と聞く、「おれは陣中警備の夜回り番だ」といいながら羽織の裾を火に入れ、火をつけて帰り、奥庭の木陰で火縄に点火し、障子の破れに忍び寄り軍議に余念のない三村を撃ち、走り出て大藪にかくれ様子をうかがうと、堂内騒然となり人の出入はげしく、硝煙のうすれをすかして見ると、三村はうつ伏せになっているので、さては命中したと思い、遠藤兄弟は字喜多直家に復命した。
直家大いに嬉び一千石を加増し、兄は河内守又次郎といい、弟は修理亮喜三郎と称した。三村勢は喪を秘し軍を整えて備前に攻め入る風をよそおい、備中に引き傾げ家親を葬り、追善供養の終わるを待って三村勢は、ふん怒の情に耐えず、弔い合戦のため備前に討ち入ったのは永禄九年五月十五日であった。
雄図空しく遠征中変死した三村家親の本陣、興善寺は現在下籾字末則一、四八一番地である。
寺跡は水田となり面積は一反余りで、前に興善寺池があり、家親供養の宝篋院塔三基(大一基高五尺)は寺の後にあったが、明治二年火災により寺は焼失し、山崩れのため旧位置の西南十間の所田圃の岸に東向にして移転してある.

三村家親の供養塔

興善寺が合併した瑞泉院

興善寺池

戦国悲話(1)~竜王山城の落城

竜王山城址は、下籾の竜王山にあり、山頂に本丸址(東西四十間、南北十七間)があって周囲に壕の跡がある。南方は三段、東方は五段(東西百五十問、南北百二十間)になっているが、今はうっそうたる林である。
当城は戦国の頃、伯耆(鳥取)と作州半分を領していた、伯青尾高城主山名氏重の二男岸備前守氏秀が天文年間に、尼子氏に味方して此地に築城し、盛んに近郷の諸城と覇を争い尼子氏のために忠節をつくしていた。
当時の美作、備前、備中三国は諸豪攻防の地となって戦争にあけくれて、山名、赤松二氏の攻争の地となり、或は尼子、大内二氏の争奪地となり、或は毛利、尼子二氏の交争地となり、諸将は遠交近攻の計を立て、権謀悪らつな手段をつかい、昨日の友は今日は敵となり、家臣が主君を亡して領地を拡める時代であった。
備前天神山城主、清上遠江守宗景は、尼子氏の衰えたのを見て、永禄元年(1558年)十月兵をひきい竜王山城を攻撃してきた。岸氏秀は防戦に努めたが援軍もなく衆寡敵せず、ついに氏秀は戦死し、城は陥ちその子等が敗走したのは十月十日であった。
氏秀の墓は岸氏の祈願所であった下籾阿禰陀寺本堂南側にあり、苔蒸したまま現存している。尚阿禰陀頂は、明治二十五年寺号を、竜堂山瑞泉院と改め、明治四十四年六月には、下籾の仏預山興善寺を合併している。

籾村の始まり

◆村のはじまり
旧竜山村は、やせ牛の背のように細長く、北は四百九十米の竜王山が聳え、南は概ね二百三十米前後の丘陵地となり、福渡盆地へ伸びている。
中央は起伏の多い台地となり学校所在地は標高三百四十五米である。
村に入る古い道は、弓削へ通じる大菅道と松村道があり、西は鶴田の入野と平井道、南は三明寺と赤ノ田、野口道がある。
神目へは大熊と別所道があり、北の垪和へは今宮(境村)道があるが、蛇行した細い坂道である。
周囲に深い谷が食い込み、上籾、中籾、下籾、別所の四地区がある。山また山の問に二百三十戸の農家が点在し、耕して天にも達するような棚田が目につき、騒音も公害もなく、道を尋ねるにも人影もない静寂で平凡な過疎の村、これが竜山である。

古代人の足跡
この竜山にいつ頃から人が住み、村落をつくって土着したであろうか。
古墳も、古い住居跡もなく、資料は乏しいが昭和四十五年冬、上籾の字明見の山林を開墾中に森尾好充氏が右斧を発見しているから、狩猟を主として生活した古代人がこの方面に出没していたであろう。
またそれより前、四十三年十二月別所字勝負田の山林を開墾中に、弥生時代の銅剣を加藤基弘氏が発見した。
この銅剣は祭礼用のもので,この地方に豪族が住居して農餅文化を誇り、権威の象徴にしていたであろうということで,現在岡山大学法文学部考古学教室に保管されている。
未開時代の交通蕗は、平地や川沿いの渓谷を歩くよりも、山の尾相伝いの方が、毒蛇野獣に襲われる危険も少なく方角もよくわかり、竜山の地形がさほど険しくないから人の往来に便利で、畑作中心の農耕には、風害も少なく、日照時間は長いし土質はよく、外敵の侵入を防ぐに都合がよい環境であった。

出雲文化と大和文化
北の上籾地区は山続きの乢を境にして、西から鶴田の入野、角石谷及び境村に接し、東は稲岡の今岡と弓削の松村と連なっているから、古くから打穴、坪和の荘からの影響をうけ、稲岡、弓削荘の交渉も多く,出雲文化が入って来て、この方面との血族縁故関係が濃い。
氏神の秋祭りに奉納する和子舞は、遠く中国山脈を越えて山陰に源流があるといわれている。
南の下籾地区は備前建部荘、福漢方面から漸進的に北上し開拓土着したようで,岡山県通史や岡山県農地史によると、応神天皇の御代に秦氏が、拓地土木や織物の技術をもって帰化し一族は全国に土着した。
秦氏の氏神は松尾神社と稲荷神社で、秦氏の遠路として、下籾に半田,中籾に松尾の地名があると記してある。
北の山陰出雲文化と、南からの大陸大和文化が、この竜山の地で合流し、あわ、きび、そば、麦、豆、芋、陸稲を栽培し山で獲物を探しつつ五殻豊能を祈願して神を杷り、氏神を中心にして、血族関係や主従関孫の団結をかため、貴重な永年の生活経験と生活知識を積み重ねつつ、平凡な集団社会を創り出したのである。

◆籾村(もむら)の起源
古く石器時代から人間が往来し、弥生時代には一群の人々が土着し、その後大陸文化を持った人たちが入植して次第に村落を形成した竜山村は、むかしは籾村といっていた。
下籾の籾山神社の縁起によると、奈良時代の和鋼五年元明天皇の御代(七二一年) に籾邑という地名が見え、平安時代嵯峨天皇の弘仁元年(八一〇年)に籾村の地名が、中籾八幡神社の縁起に記されていることから考えると、奈良から平安にか
けて、「籾村」という小さい村ができたのであろう。
村人は天変地変に驚異を感じ、疫病を恐れ、死の恐怖におののき神を信仰し、集団生活の支えとして氏神を杷ったのである。
この地方の大氏神である福渡の志呂宮と、下籾の籾山神社の鋳座は和銅五年であり、上籾の幣代神社は和銅六年、中籾の八幡神社は称徳天皇の神護景雲二年(七六八年)であり、上籾の今井神社は和鋼より古く文武天皇の慶雲元年(七〇四年)であって、門神社は不詳であり、笹井神社は清和天皇の貞観八年(八六六年)となっている。
上籾の笹井神社が創立された貞観時代は我国の歴史上では藤原摂関時代にあたり、この頃になると村としても形が整っていたであろう。
籾村の地名が古文書に記されているものを拾ってみると、和名妙に、亭水三年(1184年)弓削荘は池大納言家の領するところとなり、上弓削村など十七ケ村の中に、上籾村、下籾村が記されている。
作陽誌に、後花園天皇の文安三年(1446年)美作国弓削庄志呂宮段米納分に籾村が記されている。

・美作国弓削庄志呂宮段米納分
神目村分(略)
立野村分(略)
河口村分(略)
深波村分(略)
籾村分
三升六合 三段畠 三升六合   宮恒 三升六合   行弘
三升六合  国吉 五升  三明寺衝門   四升八合   九郎
一斗二升四合  国久 六升     宗貞  六升四合   末則
二斗五升  友真 一斗    友正  一斗二升   正末
二斗四升四合  久国 一斗    末国  四斗   行友
二升  元守 七升二合    守重  七升二合   是次
一斗八升  正清 六升    貞近  二斗   秋吉
一斗二升  利武 八升四合 利成分成友  二斗四升   成友
二斗  菊元 一升二合    貞依  一升二合 野口弘末
三升四合    由憧  七升八合 興禅寺貞宗  三斗二升八合  行時
四斗      末国  六升      成末  一斗六升六合  守清
一斗四升    利友  四升八合    武真  八升      弘国
二升四合    家介
文安三年丙寅卯月廿二日書之

文安三年は足利義政の時代で、段米というのは一般に天下の重大事のあった時、其の費用にあてるために田畠に対して賦課する米のことである。
後には臨時課税の如きものとなり、社領では国庫に租税を納めると共に、他方では春秋二季に執行される祭礼の費用にあてたものである。

美作略史に、永禄九年二月(1566年)三村家親が久米南条郡籾村輿善寺に屯すとある。
美作古簡註解に、水禄十二年七月(1569年)沼本彦右衛門豊盛の文中に籾村とある。
正保の図、正保二年(1645年)将軍家光の命で、藩主森公が封内測量地図をつくって献上した中に、弓削庄穂村となっている.
美作略史に、宝暦十三年六月(1763年)下総古河藩主土井利里、久米南条郡内、一万右余、三十ケ村を領すとあり籾村が出ている.

◆籾村の地名由来
古記録には、籾邑、籾村、上籾村下籾村、籾村、穂村、籾村と時代を追って記されているが、その超原由来については次のようである。
中籾八播神社の由緒沿革に、
「口碑によると、人皇第五十三代嵯峨天皇の弘仁元年(810年)十一月大嘗祭の時、悠記に参河国を、主基に美作国を定められ中にも久米の郡が指定された時、当地の豪族某なる者が其の式典の新籾を献納したことからこの地を籾村と称した。その実蹟として当地齋田の地域を公保田、其の齋田を正村、齋倉の地を倉尾、抜穂位の宿舎の地を御手代(上籾幣代神社の地)勅使諸役の潔齋井戸を少齋井(上籾笹井神社の地)齋田守の屋敷を守屋という」とある。

また一説によると、
干ばつの時、各地とも籾種が収れなかったが、此の穂村の一部に清水の湧き出る水田があって、かろうじて種籾を採取する事ができたので、以来籾村と称したという。