戦国悲話(2)~興善寺の変

栄枯盛衰、有為転変は人の世の常である。
永禄五年(1,566年)豪将尼子晴久が死ぬると、美作の諸将は備前の浦上氏に属するものと、或は安芸の毛利氏に通ずるものにわかれた。
備中成羽城主三村修理亮家親は毛利氏に属し、猛威は備中国内に及んでいたが、永禄八年五月兵を率いて美作に入り、更に美作南部を占領し、備前を侵略せんと機会をうかがっていたが、毛利軍の加勢を得て永禄九年新春、兵六千を率い本陣を久米南条郡籾村備頂山輿善寺に置き、弓削仏教寺から三明寺一帯に兵を配し備前追撃の準備をしていた。
備前天神山城主浦上宗景は、家臣宇喜多直家が最近とみに勢力を増大し、権力は主を凌ぐ勢となって、浦上と宇喜多二氏の問に不和の空気が漂い、奸才にたけた宇喜多直家は三村軍の備前侵略には心安からぬ不安の気持に襲われていた。
津高郡加茂の住人遠藤又次郎と弟の喜三郎兄弟は鋭術に秀れ、かねて成羽に行き家親の面容を識っているので、直家は遠藤兄弟に「何とかして本陣に忍ひ寄り家親を討ち果せば恩賞をとらせる」と命令した。
二月五日、遠藤兄弟は、木綿の着物、羽織に身支度し短銃と玉薬を懐中にして夜を待って寺の後の大竹薮に忍びこんだ。
書院には、ろうそくの灯障子に映えて明るく、大庭には、かがりをたいて番兵がいる。
又次郎たき火のそばに立寄り、「各々方、寒いのに大儀であるぞ」と気安く声をかけると、軽輩の番兵はあっけにとられて聞きとがめる者もなく、障子の際に忍び寄って立聞きをすると軍の手配り評定のさい中である。
そっと指につばをつけて障子を破ってうかがうと、正面に三村家親が座し、座頭一人、重臣など数人がいる。
又次郎は懐中に短銃は用意しているが火がないので、又、前の火のところに立寄り「今宵は寒さが、ひときわきびしいことだ」と話しかけると、軽輩の番兵が「お前は何の役か」と聞く、「おれは陣中警備の夜回り番だ」といいながら羽織の裾を火に入れ、火をつけて帰り、奥庭の木陰で火縄に点火し、障子の破れに忍び寄り軍議に余念のない三村を撃ち、走り出て大藪にかくれ様子をうかがうと、堂内騒然となり人の出入はげしく、硝煙のうすれをすかして見ると、三村はうつ伏せになっているので、さては命中したと思い、遠藤兄弟は字喜多直家に復命した。
直家大いに嬉び一千石を加増し、兄は河内守又次郎といい、弟は修理亮喜三郎と称した。三村勢は喪を秘し軍を整えて備前に攻め入る風をよそおい、備中に引き傾げ家親を葬り、追善供養の終わるを待って三村勢は、ふん怒の情に耐えず、弔い合戦のため備前に討ち入ったのは永禄九年五月十五日であった。
雄図空しく遠征中変死した三村家親の本陣、興善寺は現在下籾字末則一、四八一番地である。
寺跡は水田となり面積は一反余りで、前に興善寺池があり、家親供養の宝篋院塔三基(大一基高五尺)は寺の後にあったが、明治二年火災により寺は焼失し、山崩れのため旧位置の西南十間の所田圃の岸に東向にして移転してある.

三村家親の供養塔

興善寺が合併した瑞泉院

興善寺池

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