戦国悲話(3)~上ン殿城址

尼子軍の部将岸備前守氏秀の居城の竜王山城が、永禄元年に毛利軍の部将備前天神山城主浦上遠江守宗景によって落とされてから後、永禄六年(1563年)毛利輝元の命に従い、四国の阿波国上郡河嶋城主河島左近将監源惟重は一族郎党を引きつれて、尼子の残党撲滅のため、中籾の河鳥に進駐し上ン殿城を築き、勢力拡大に努めていた.
たまたま永禄十年十二月(一、五六七年)一族中に反乱者があり、城に火を放ち、おりからの嵐にあふられ僅か四ケ年にして落城した。城址には武神の摩利支天を祀る祠があり、城主の墓碑もある。
墓碑の正面には
「妙法 元祖直山円郭大居士尊位
永禄八乙丑天九月十五日」
墓碑の右側には
「清和天皇由里二十二代之苗裔
河烏左近将監源惟重 阿州国上郡河嶋城主尼子為退治当国 御壽九十八才」同じく左側には「為先霊佛果」とあり台右に、河島株関孫一族名が刻まれている。
尚、城に関係した地名として、弓馬の乢(通称にばん乢)と、馬場が残っている。
天正五年(一、五七七年)世は将に戦国争乱の時代で、毛利軍の将浦上遠江守宗景は、家臣宇喜多直実と不和になり、地方の豪族は二派に分れて敵味方となった。字喜多方の部将、難波十郎左衛門、難波忠兵衛、沼元彦右衛門、沼元新左衛門、神納五郎左衛門(菅納
又菅)神納三郎左衛門、三浦源十郎並びに中籾の河島玄蕃は全間の蓮華寺山城に立てこもりその勢は盛んであった。
浦上宗景に味方する、小坂與三郎右兵衛、延原内蔵允家次、岡本太郎左衛門の軍勢は蓮華寺山城を攻撃した。
攻防激戦を何度か繰り返し、宇喜多方の部将三浦源十郎は戦死し篭城の宇喜多方は苦戦をしていたが、浦上宗景が死亡し天正十二年(一、五八四年)十二月、字書多と毛利軍が和睦し、毛利軍は安芸へ引き揚げ、蓮華寺山城も威亡し、宇喜多直家が美作を領したので、天下は静まった。

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