戦国悲話(1)~竜王山城の落城

竜王山城址は、下籾の竜王山にあり、山頂に本丸址(東西四十間、南北十七間)があって周囲に壕の跡がある。南方は三段、東方は五段(東西百五十問、南北百二十間)になっているが、今はうっそうたる林である。
当城は戦国の頃、伯耆(鳥取)と作州半分を領していた、伯青尾高城主山名氏重の二男岸備前守氏秀が天文年間に、尼子氏に味方して此地に築城し、盛んに近郷の諸城と覇を争い尼子氏のために忠節をつくしていた。
当時の美作、備前、備中三国は諸豪攻防の地となって戦争にあけくれて、山名、赤松二氏の攻争の地となり、或は尼子、大内二氏の争奪地となり、或は毛利、尼子二氏の交争地となり、諸将は遠交近攻の計を立て、権謀悪らつな手段をつかい、昨日の友は今日は敵となり、家臣が主君を亡して領地を拡める時代であった。
備前天神山城主、清上遠江守宗景は、尼子氏の衰えたのを見て、永禄元年(1558年)十月兵をひきい竜王山城を攻撃してきた。岸氏秀は防戦に努めたが援軍もなく衆寡敵せず、ついに氏秀は戦死し、城は陥ちその子等が敗走したのは十月十日であった。
氏秀の墓は岸氏の祈願所であった下籾阿禰陀寺本堂南側にあり、苔蒸したまま現存している。尚阿禰陀頂は、明治二十五年寺号を、竜堂山瑞泉院と改め、明治四十四年六月には、下籾の仏預山興善寺を合併している。

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