籾村の始まり

◆村のはじまり
旧竜山村は、やせ牛の背のように細長く、北は四百九十米の竜王山が聳え、南は概ね二百三十米前後の丘陵地となり、福渡盆地へ伸びている。
中央は起伏の多い台地となり学校所在地は標高三百四十五米である。
村に入る古い道は、弓削へ通じる大菅道と松村道があり、西は鶴田の入野と平井道、南は三明寺と赤ノ田、野口道がある。
神目へは大熊と別所道があり、北の垪和へは今宮(境村)道があるが、蛇行した細い坂道である。
周囲に深い谷が食い込み、上籾、中籾、下籾、別所の四地区がある。山また山の問に二百三十戸の農家が点在し、耕して天にも達するような棚田が目につき、騒音も公害もなく、道を尋ねるにも人影もない静寂で平凡な過疎の村、これが竜山である。

古代人の足跡
この竜山にいつ頃から人が住み、村落をつくって土着したであろうか。
古墳も、古い住居跡もなく、資料は乏しいが昭和四十五年冬、上籾の字明見の山林を開墾中に森尾好充氏が右斧を発見しているから、狩猟を主として生活した古代人がこの方面に出没していたであろう。
またそれより前、四十三年十二月別所字勝負田の山林を開墾中に、弥生時代の銅剣を加藤基弘氏が発見した。
この銅剣は祭礼用のもので,この地方に豪族が住居して農餅文化を誇り、権威の象徴にしていたであろうということで,現在岡山大学法文学部考古学教室に保管されている。
未開時代の交通蕗は、平地や川沿いの渓谷を歩くよりも、山の尾相伝いの方が、毒蛇野獣に襲われる危険も少なく方角もよくわかり、竜山の地形がさほど険しくないから人の往来に便利で、畑作中心の農耕には、風害も少なく、日照時間は長いし土質はよく、外敵の侵入を防ぐに都合がよい環境であった。

出雲文化と大和文化
北の上籾地区は山続きの乢を境にして、西から鶴田の入野、角石谷及び境村に接し、東は稲岡の今岡と弓削の松村と連なっているから、古くから打穴、坪和の荘からの影響をうけ、稲岡、弓削荘の交渉も多く,出雲文化が入って来て、この方面との血族縁故関係が濃い。
氏神の秋祭りに奉納する和子舞は、遠く中国山脈を越えて山陰に源流があるといわれている。
南の下籾地区は備前建部荘、福漢方面から漸進的に北上し開拓土着したようで,岡山県通史や岡山県農地史によると、応神天皇の御代に秦氏が、拓地土木や織物の技術をもって帰化し一族は全国に土着した。
秦氏の氏神は松尾神社と稲荷神社で、秦氏の遠路として、下籾に半田,中籾に松尾の地名があると記してある。
北の山陰出雲文化と、南からの大陸大和文化が、この竜山の地で合流し、あわ、きび、そば、麦、豆、芋、陸稲を栽培し山で獲物を探しつつ五殻豊能を祈願して神を杷り、氏神を中心にして、血族関係や主従関孫の団結をかため、貴重な永年の生活経験と生活知識を積み重ねつつ、平凡な集団社会を創り出したのである。

◆籾村(もむら)の起源
古く石器時代から人間が往来し、弥生時代には一群の人々が土着し、その後大陸文化を持った人たちが入植して次第に村落を形成した竜山村は、むかしは籾村といっていた。
下籾の籾山神社の縁起によると、奈良時代の和鋼五年元明天皇の御代(七二一年) に籾邑という地名が見え、平安時代嵯峨天皇の弘仁元年(八一〇年)に籾村の地名が、中籾八幡神社の縁起に記されていることから考えると、奈良から平安にか
けて、「籾村」という小さい村ができたのであろう。
村人は天変地変に驚異を感じ、疫病を恐れ、死の恐怖におののき神を信仰し、集団生活の支えとして氏神を杷ったのである。
この地方の大氏神である福渡の志呂宮と、下籾の籾山神社の鋳座は和銅五年であり、上籾の幣代神社は和銅六年、中籾の八幡神社は称徳天皇の神護景雲二年(七六八年)であり、上籾の今井神社は和鋼より古く文武天皇の慶雲元年(七〇四年)であって、門神社は不詳であり、笹井神社は清和天皇の貞観八年(八六六年)となっている。
上籾の笹井神社が創立された貞観時代は我国の歴史上では藤原摂関時代にあたり、この頃になると村としても形が整っていたであろう。
籾村の地名が古文書に記されているものを拾ってみると、和名妙に、亭水三年(1184年)弓削荘は池大納言家の領するところとなり、上弓削村など十七ケ村の中に、上籾村、下籾村が記されている。
作陽誌に、後花園天皇の文安三年(1446年)美作国弓削庄志呂宮段米納分に籾村が記されている。

・美作国弓削庄志呂宮段米納分
神目村分(略)
立野村分(略)
河口村分(略)
深波村分(略)
籾村分
三升六合 三段畠 三升六合   宮恒 三升六合   行弘
三升六合  国吉 五升  三明寺衝門   四升八合   九郎
一斗二升四合  国久 六升     宗貞  六升四合   末則
二斗五升  友真 一斗    友正  一斗二升   正末
二斗四升四合  久国 一斗    末国  四斗   行友
二升  元守 七升二合    守重  七升二合   是次
一斗八升  正清 六升    貞近  二斗   秋吉
一斗二升  利武 八升四合 利成分成友  二斗四升   成友
二斗  菊元 一升二合    貞依  一升二合 野口弘末
三升四合    由憧  七升八合 興禅寺貞宗  三斗二升八合  行時
四斗      末国  六升      成末  一斗六升六合  守清
一斗四升    利友  四升八合    武真  八升      弘国
二升四合    家介
文安三年丙寅卯月廿二日書之

文安三年は足利義政の時代で、段米というのは一般に天下の重大事のあった時、其の費用にあてるために田畠に対して賦課する米のことである。
後には臨時課税の如きものとなり、社領では国庫に租税を納めると共に、他方では春秋二季に執行される祭礼の費用にあてたものである。

美作略史に、永禄九年二月(1566年)三村家親が久米南条郡籾村輿善寺に屯すとある。
美作古簡註解に、水禄十二年七月(1569年)沼本彦右衛門豊盛の文中に籾村とある。
正保の図、正保二年(1645年)将軍家光の命で、藩主森公が封内測量地図をつくって献上した中に、弓削庄穂村となっている.
美作略史に、宝暦十三年六月(1763年)下総古河藩主土井利里、久米南条郡内、一万右余、三十ケ村を領すとあり籾村が出ている.

◆籾村の地名由来
古記録には、籾邑、籾村、上籾村下籾村、籾村、穂村、籾村と時代を追って記されているが、その超原由来については次のようである。
中籾八播神社の由緒沿革に、
「口碑によると、人皇第五十三代嵯峨天皇の弘仁元年(810年)十一月大嘗祭の時、悠記に参河国を、主基に美作国を定められ中にも久米の郡が指定された時、当地の豪族某なる者が其の式典の新籾を献納したことからこの地を籾村と称した。その実蹟として当地齋田の地域を公保田、其の齋田を正村、齋倉の地を倉尾、抜穂位の宿舎の地を御手代(上籾幣代神社の地)勅使諸役の潔齋井戸を少齋井(上籾笹井神社の地)齋田守の屋敷を守屋という」とある。

また一説によると、
干ばつの時、各地とも籾種が収れなかったが、此の穂村の一部に清水の湧き出る水田があって、かろうじて種籾を採取する事ができたので、以来籾村と称したという。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です